平成二十三年
妙法 清澄院日大信士位
六月二日
俗名 田中大偉
享年十六歳
昨晩は、2:00AMまで仕事をして目の前のホテルに泊まった。
8:00AM過ぎに会社に出て、今期末の最終計数の会議に出席。
出かける用事があったので、自分のグループの報告を終え
他の部の報告を聞く事もなく、T社や豊洲にある親会社へ
打ち合わせのため出かけた。
通常月でも忙しいというのに、期末にみんな押し込んでくるのを
何とか対応したい気持ちもあり、忙しさがはんぱない。
いつもそうだけど・・・名指しで電話をしてきて
頼み事を言われる。
こちらも知らない人ではないので、なんとかするみたいな・・・。
繋がりで仕事がどんどん舞い込んでくる。
そうすれば、また仕事が入る。
一生懸命対応すれば、依頼者から違う人へ話し(噂)が広がり
「あいつに言えばなんとかしてくれる」でまた仕事がはいる。
自分的には、仕事の大小にかかわらず、気配り、心配りをしながら
対応する事を心がけて仕事をしている。
で・・昨日の35年ぶりの話。
中学三年の夏には、市内大会の決勝戦で1対0で敗れた。
別の地区大会で優勝し、そのまま千葉県大会を逆転勝ちで優勝。
山梨で行われた関東大会へは習志野第四クラブというクラブチームとして進んだ。
初戦は、7対0で快勝。
2回線へ進出したが、2対0で敗れた。
急きょ保護者会が開催され、貸切バスで山梨まで来てくれた・・・
うれしかったなぁ~。
最後の夏も終わり・・・受験に入っていった。
東京の高校からは、チーム全員を引き取ってもいいなんていうところも出てきた。
今でも忘れない一言・・・
中学の時の掃除はお昼休みが終わってからはじまる。
掃除も終わり中庭を歩いていると・・・きーさん(木島)が来た。
・・・一緒に関東一高に行かない?
関東一高?
一緒に野球をやらないかと言われた。
その場をなんとなくやり過ごした。
千葉県以外の甲子園に出場している高校は知ってはいたが、
まさか千葉県以外の高校に進学するなんて考えもしなかった。
高三の夏・・・関東一高は甲子園に出場し8強に入った。
中学の時はオーバーハンドだったが、高校では下手投げに変更していた。
TVを観ながら・・・
もし、一緒に行っていたら自分があの場にいたかも知れないと思った。
甲子園大会が終わり、絵皿を持って家に来てくれたのが最後だから32年ぶり?
今でもこの事は思い出す。
決して今を後悔しているわけではなく、振り返ると色々な場面でのターニングポイントがあったと思う。
必然でそのターニングポイントを決めて今がある。
・・・夢のターニングポイントも
今では懐かし良い思い出。
大偉も16年間の中でのターニングポイントは、いつくかあったが
やっぱり高校進学のポイント一番大きい。
自分の人生・・・
家族の人生・・・
両親の人生を結果、変えてしまったのだから。
大偉の事を少しでも気にかけてくれている人のこれからの人生も
多かれ少なかれ、色々な場面で思い出すと思うよ。
自分が親になり、子供がバイクに乗りたいと言った時に・・・
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